『ガラス玉演戯』を共読する
ヘッセの最後の小説。ユートピア的理想と現実の衝突を探る。包容と融合、そして独りよがりにならないことへの考察は、現在の国際情勢において警示の意義を持つ。
『ガラス玉演戯』は共読グループの2023年2月の課題書だった。私にとっては難しすぎ、断続的に半月強かかってようやく読み終えた。
小説でありながら、作者はその中に哲学と価値観の議論を詰め込みすぎている。読書中、何度も投げ出したくなった。作者の最後の著書として、作者が自らの人生の体得と思想のすべてを、この本を通して表現しようとしているのが感じられた。作者はこの本の中で説教じみた教育への嫌悪感を書いているのに、読書中にも説教のような感覚を受け、私はこの説教式の感覚が好きではない。
この本で面白いのは、作者の東洋文化への関心だ。作中に登場する静坐瞑想と中国文化が、異域の雰囲気をもたらしてくれる。
重要なガラス玉演戯という概念は、ずっと私を悩ませ続けた。ガラス玉演戯が出てくるたびに、とても困惑した。ガラス玉演戯において異なる事物を相互に関連付ける必要があるという説は、ホフスタッターの『表象と本質』を思い出させた。思考の本質は類比だという観点だ。
そしてクネヒトというキャラクターを通して、作者は現状に安住せず、異なる観点や文化により包容的で、周囲の状況に影響されず自らの内面に従うよう人々に呼びかけているのだと感じた。作中の太極という観点の解説のように、完璧と頂点は往々にして衰退の始まりを意味し、ただ包容と融合だけが長久の調和をもたらす。現在のロシア・ウクライナ戦争や米中対抗と結びつけると、その警告的な意義がますます感じられる。
この本が難しくてあまり好きではない理由は、おそらく私自身の限界から来るもので、作中の一部の考えや表現形式を体験しにくいか、受け入れるのを拒んでいるのだろう。いつかこの本をもっと好きになれることを願う。
翻訳本の序文で、訳者はこう書いている。「それは一連の象徴と譬喩で哲学的なユートピア構想を織り上げ、二十世紀以後の未来世界の寓話を虚構したものだ。」結末について、世俗世界に戻ったばかりのクネヒトがすぐに結末を迎えた、この結末は何を意味するのだろうか。
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